国民同士がいがみ合う必要はありません。かつてタイは最後の避難所でした。本当の「悪」は誰ですか?

タイ国防省報道官室は8月4日、カンボジアがポル・ポト(クメール・ルージュ)政権時代にタイから受けた人道支援を忘れてはならないと主張しました。

この投稿では、当時タイが単なる「隣国」ではなく、「地獄のような政権から逃れたカンボジア人にとって最後の避難所」であったことを述べています。

投稿メッセージ

「生存者から… そして銃を向ける者へ――カンボジアが、かつてタイから受けたすべてを忘れたとき」

1979年、数十万、あるいは数百万のカンボジア人が、クメール・ルージュ(ポルポト)政権下の「生き地獄」から逃れ、タイ国境を越えてきました。

疲れと飢え、命からがら逃げてきた彼らを、タイ国民は扉を開いて迎え入れました。

そのときタイは彼らにとって「隣国」ではなく、「最後の避難所」となったのです。

食料を送り、難民キャンプを開設しました。

政府、NGO、そして一般市民までもが協力し、ある村人は、自分のわずかな一杯の米をカンボジア人に分け与えたのです。

 

「地図なき大脱出」1979年初頭~1980年代初期

この時期、目的地もなく、命がけでカンボジア各地から人々が脱出してきました。

多くは身分証も持たず、食料もなく、目指すのは東部国境線。

特に、アランヤプラテート、チョンチョム、カプチョーン、プラチンブリー、シーサケートなどが拠点となりました。

タイ領内の難民キャンプ

タイは、命を救おうとするカンボジア人を受け入れるために、複数の難民キャンプを設置しました。

慎重ながらも、人道的精神で手を差し伸べたのです。

「何も持たずに来た人々が、再び立ち上がる力を持って帰っていった」

これらの難民キャンプで、何千人ものカンボジアの子供たちが育ちました。
タイの教師から学んだ子もいました。
タイの医師により結核を治療された人もいました。
カナダ、アメリカ、あるいはカンボジアへと移住して、新しい人生を始めた家族もいました。

それなのに、数十年後――カンボジアはそれをすべて忘れてしまったのか。

全ては、チナワット家(タクシン、インラック、ぺトンタン)とフン家(フン・セン)とのいさかいから始まりました。
それが国同士の軍事衝突に発展し、今は国民同士がいがみ合う様になりました。
大元を忘れてはいけません。
本当は、東南アジアが一致団結できるような国になれば、自給自足が可能な一大経済圏になるのですが…。

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