タイのリゾート地「フアヒン」には、失われた「双子の街」があった?! 列強に翻弄された人々。

タイの英字メディア「ネイション」は、毎週タイの歴史にトピックを当て、興味深い記事をアップしているので参考になります。

タイ・プラチュアップキーリーカン県にある魅力的な海辺の町「フアヒン」は、ビーチリゾートと穏やかな雰囲気で有名ですが、実はかつてフアヒンには「双子の町」が存在していたのだと言います。

その町の名はかつて「プラチャンタ キリケット(Prachanta Khiri Khet)」と呼ばれており、現在ではカンボジア領のコッコン(Koh Kong)として知られています。

■ 「双子の町」が生まれた背景

19世紀、ラーマ4世(モンクット王)の治世下、シャム(現在のタイ)は、海岸線の国境を安定させるための施策を進めていました。

この一環として、タイランド湾の西側の町ナーンロムは「プラチュアップキーリーカン(Prachuap Khiri Khan)」に、東側の島(現在のコッコン)は「プラチャンタ キリケット」と改名されました。

この2つの名前「キーリーカン」と「キーリケット」は語尾が韻を踏むように名付けられ、統一感と詩的な調和を象徴するものでした。

■ 植民地時代の波に呑まれて

しかし、この理想は長く続きませんでした。

19世紀末になるとフランスが東南アジア、特にベトナムとカンボジアへの植民地支配を強化し始め、タイ(シャム)は領土的な圧力にさらされます。

1893年にはフランス軍艦がバンコクに進入し、シャムに領土の割譲を強要してきます。
その結果、同年10月3日に締結された仏泰条約(Franco-Siamese Treaty)により、シャムはラオスやカンボジアの広範囲をフランスに割譲することとなります。

そして1904年、フランスは更なる領土交換を提案。タイはトラート県の返還を受ける代わりに、バッタンバン、シェムリアップ、シソポンと共にプラチャンタ キリケット(現在のコッコン)を放棄せざるを得ませんでした。

■ 「もう一つのフアヒン」の消滅と名残

こうして、かつてフアヒンと双子だった町は歴史の中に消えていきました。

タイ人住民はコッコンを離れ、チャンタブリーやクッド島へ移住しました。
その後、コッコンはカンボジア人が主に定住する地域となり、今日ではタイ系住民は約25%にとどまっていると言われています。

現在でも、コッコンに残るタイ人の末裔は、トラート県と同じ方言を話すなど、ルーツの名残をとどめています。

しかし1963年、カンボジア政府はタイ語の使用を禁じる政策を導入し、違反者には厳罰が科されるなど、タイ文化の排除が試みられました。

それでも、姓や方言、集団的な記憶の中にタイの痕跡はわずかに残っているのです。

■ もう一つの物語を忘れないために

今日、プラチャンタ キリケットはほとんど歴史の中に埋もれた存在となっています。
一方、フアヒン(プラチュアップキーリーカン)は現在も人気のリゾート地として多くの観光客を迎えています。

この「失われた双子の町」の物語は、東南アジアの植民地支配が国境と人々の運命をどのように変えていったかを静かに語っています。

今のカンボジアまで、タイの領土だったら…。
また、歴史は大きく違ったものになっていたでしょうね。

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