6月24日は「シャム立憲革命」の日。タイ民主主義の幕開けの歴史と意義。

6月24日は「シャム革命の日」として知られ、タイ(当時シャム)が絶対王政から立憲君主制へと移行した歴史的な日です。この日は、国王を国家元首とする新たな民主的統治体制への転換点として、現在もタイ国民の記憶に深く刻まれています。

この出来事を象徴するものとして、「民主記念塔(Democracy Monument)」が建設され、タイの社会・政治の変革を今なお象徴しています。

民主記念塔:変革の象徴

この歴史的転換点を記念して、「民主記念塔」は1939年6月24日に建設が始まり、翌1940年6月24日に正式に完成・除幕されました。

この塔は単に政体の変化を象徴するだけでなく、タイの主要国道の起点=ゼロマイル地点でもあり、国家のインフラと統治における中心的な役割を果たしています。

塔の周囲には銃口を下に向けて地面に埋められた75門の大砲が並んでおり、これは革命が起こった仏暦2475年(西暦1932年)を表しています。記念塔の細部にまで歴史的意義が込められていることが分かります。

1932年6月24日、タイ民主主義の始まり

1932年6月24日の朝、プレーム・ポンプラパー率いる「カナラッサドン(人民党)」は、軍人や市民を動員してバンコク王宮を掌握しました。
当時、ラーマ7世(プラジャディポック国王)は、フアヒンの「クライカンウォン宮殿」に滞在していました。

クーデターの指導者たちは「首都防衛軍事委員会」を設立し、王宮近くの「王立騎馬像広場」に集結、革命の目的を記した宣言を発表しました。
また、同時に王族や高級軍人の一部は「アナンターサマーコム宮殿」で拘束されました。

国王の平和と団結への決意

クーデターの正当性を確保するため、「首都防衛軍事委員会」はルアン・スパチャラサイ中佐をクライカンウォン宮殿へ派遣し、国王に新憲法の下で立憲君主として復帰してほしいと丁重に要請しました。

「人民党は王位を簒奪する意図はございません。我々の最大の願いは憲法による統治の実現です。従いまして、陛下におかれましては、王都へお戻りいただき、立憲君主としてご継続いただきたく存じます。」

この要請に対し、国王は返書を送り、特別列車でフアヒンを出発しました。
その中で国王は、以下のように述べています。

「私は国民の幸福を第一とし、流血を望みません。平和的かつ円滑な政体の移行こそ望ましいのです。
実のところ、私は以前から立憲君主制への移行を考えておりました。
この役割を拒否すれば、新政府を外国が承認しない恐れがあり、それは国家にとって大きな損失となります……」

平和的な政体移行

1932年6月25日、ラーマ7世は革命側が手配した王室列車でバンコクに戻りました。
翌26日には人民党の指導者たちと会見し、革命に関わった全員に恩赦を与える勅令に署名しました。

その後、6月27日には「暫定憲章」が公布され、これが後の恒久憲法の基礎となったのです。

そして1932年12月10日、タイ初の恒久憲法が制定され、今日に続く民主主義の基礎が築かれました。

 

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